月: 2018年9月 の結果

戦争法反対大集会

日比谷野外音楽堂で行われた集会に参加しました。

戦争法から3年、安倍9条改憲NO! 沖縄、辺野古新基地建設反対、玉城デニー氏の勝利を勝ち取ろうとの思いで集まった人は4800人!

私も開会直前に何とか滑り込み会場へ。入場制限がかかるほど大勢の人が集結しました。

集会では、各野党の代表などのスピーチで「市民と野党で結束して頑張ろう」の訴えがありました。

集会後は、銀座まで皆で声を上げてのデモ行進。私もプラカードを手に沿道の人たちにアピールしながら行進をしました。

お祭り

9月14日~16日は各自治会でお祭りがありました。私も幼い頃からお祭りが大好きです。

今年は地元に戻り久しぶりに浴衣を着てパレードに参加。どうなることかと思いましたが、そこは昔取った杵柄(日本舞踊の経験あり)でとても楽しく盆踊りをすることが出来ました。

また、自治会の皆さんにご迷惑をお掛けしながら、お祭りのお手伝いもさせていただきました。

地域のお祭りは、長年に渡り世代を超えて多くの方々の力で守られてきた大切な宝物です。

それだけに、お祭りを成功させるためには、準備から片付けまで大変な労力がかかります。

長年に渡ってご尽力されている先輩方への感謝の気持ちとともに、若い世代がしっかり受け継ぎ活躍している中に、私も一緒に参加させてもらえたことはとても良い経験となりました。

お祭りも地域づくりも多世代がしっかり協力していくことが必要ですね。私も地域の一員としてこれからも全力で頑張ります。

重監房資料館

草津温泉に行く機会があり、帰りに重監房資料館を見学してきました。

[重監房とは]
「重監房」とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいました。

しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていました。

[重監房のあらまし]
ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。

このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で通称「重監房」と言われています。

重監房は昭和13年(1938年)に建てられ、昭和22年(1947年)まで使われていました。

この、およそ9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が入室と称して収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。

60年以上を経た現在、この建物は基礎部分を残すのみとなっています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。

これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。

正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていました。(重監房資料館ホームページより)

中には実寸大に再現された房の一部や発掘調査で出土した遺物、ハンセン病の歴史や証言を学ぶ展示や証言映像などのコーナーがあります。

実寸大に再現された重監房は4畳半ほどの板張りの窓もない独房で天井付近に細長い明り取りの穴と、薄い弁当箱とお椀を入れられる食事差し入れ口と排泄する場所のみ。

光も入らず、冬には布団が床に氷つきその中で凍死して亡くなった方々。

その事実を目の当たりにして、心底恐ろしさを感じました。

罪のない人々を強制的に収容し、反抗したからと人権を無視した行為が行われる。

根強い偏見と差別の感情は人の命も人権も奪ってしまうのです。

この事実を重く受け止め同じ過ちを繰り返さないことが、私たちの責務だと感じました。

防災訓練

馬場・西大原・小原3自治会合同の防災訓練に参加しました。心臓マッサージやAEDの操作訓練、三角巾を用いた止血法、ビデオ鑑賞などを各町会ごとに体験をしました。

三角巾を用いた止血法では、実際に三角巾を手にして相手に巻きながら「ちゃんと巻けているかしら?」と真剣に取り組む中にも笑顔があふれているのが印象的でした。

いざという時に大切なのは「自助と共助,公助」地域の防災訓練は日常から地域での助け合いについて備える共助のためにも大切だと実感しました。